俺の日本舞踊

「日本舞踊に関する情報が知りたい!」 このサイトでは日本舞踊を学ぶ人に、初心者向けからベテランの方、子供を習わせている親御様まで、日本舞踊の知識・上達のコツや伝統文化・着物の知識など、知ってて良かった!それが知りたかった!という情報をお届けします。

長唄「綱館(つなやかた)」歌詞と解説

綱館(つなやかた)解説

f:id:kachidokilife:20200324103351j:image

切られた腕を見つめる、伯母に化けた茨木童子と、まだ気づいていない綱

平安時代の武将、渡辺綱(わたなべのつな)と、茨木童子(いばらきどうし)の対決を描いた作品です。

この物語の前段階として、戻橋(あるいは羅生門)で綱を襲った茨木童子を、綱が返り討ちにして腕を切り落とした、という話があります。

そのお話の解説はこちら↓

常磐津「戻橋(もどりばし)」歌詞と解説 - 俺の日本舞踊

「綱館」では、茨木童子が綱の館へ、切られた腕を取り返しに来るシーンが描かれます。

茨木童子は綱の伯母に化け、綱の館へやってきます。一方、綱は戻橋での茨木童子の戦いの後、陰陽師安倍晴明に「鬼は必ず7日間の間に復讐にやってくるから、7日間は誰が来ても決して会わぬように」と言われており、館に篭っています。実は今日は、その7日目だったのです。

綱は警戒して門を開けようとしません。伯母は門の前で綱に会えないことを嘆き悲しみ恨みごとを繰り返します。とうとう諦めて帰ろうとするのですが、綱はついにその情にほだされて、開けてはいけないと言われていた門を開け、茨木童子を招き入れてしまいます。

酒を酌み交わしながら語ったり舞を舞ったりしているうちに、伯母(茨木童子)は、鬼と戦って奪ったという「腕(かいな)」はどこかと尋ね、綱はうっかりそれを見せてしまいます。腕を眺めていた伯母は次第に様子が変わり、恐ろしい鬼へと姿を変え、とうとう綱から腕を奪い去り、黒雲とともに消え失せてしまいました。

2人が最初に戦ったのは戻橋なのか羅生門なのか

f:id:kachidokilife:20200324103354j:image

羅生門の鬼(鳥山石燕

「綱館」の前段は、綱が茨木童子と戦い、その腕を切り落とすという話ですが、常磐津「戻橋」では、京都一条通りにある「戻橋」がその舞台となっており、詩の中に「茨木童子」という言葉は出てきません。

一方、長唄「綱館」では、「九條羅生門」で茨木童子と戦ったことになっており、また、能の「羅生門」という演目も同じく、羅生門で綱と茨木童子が戦った話になっていて、同じ話なのに場所と鬼が違っています。

これは、「大江山の鬼・茨木童子」の伝説と「羅生門の鬼」と伝説が錯綜していると思われ、別々の物語に登場する鬼がしばしば同一視されていたことを示すものと思われます。

関連記事

常磐津「戻橋(もどりばし)」の舞台「一条戻橋」を訪ねました - 俺の日本舞踊

綱館(つなやかた)歌詞

さる程に 渡辺の源次綱は 九條羅生門にて 
鬼神の腕を切り取りつつ 武勇を天下に輝かせり
さりながら かかる悪鬼は七日の内に 必ず仇をなすなりと 
陰陽の博士 清明が勘文に任せつつ 
綱は七日の物忌みして 仁王経を読誦なし 門戸を閉じてぞ ゐたりける 
既に東寺羅生門の 鬼神の腕を切り取りしこと これひとへに 君の御威徳ならずや 
然るに清明が勘文に従ひ あら気詰まりの物忌みやな 
かかる所へ津の国の 渡辺の里よりも 訪ねて伯母のきた時雨 紅葉の笠も名にめでて 
錦をかざす故郷の 老いの力や杖つきの 乃字の姿をも 
うしとは言はで引かれつる綱が館に着きにけり 
門の外面に佇みて 
如何に綱 津の国の伯母が遙々参りたり この門開き候へ 疾くあけ召されい 
内には綱の声高く 
遙々との御出でなれど 仔細あって物忌みなれば 門の内へはかなはず候 
なに門の内へはかなはぬとな 
是非に及ばず候 
あら曲もなき御事やな 和殿が幼きその時は みづから抱き育てつつ 
九夏三伏の暑き日は 扇の風にて凌がせつ 
玄冬素雪の寒き夜は 衾を重ね暖めて 和殿を綱と言はせしこと 
アァ皆みづからが恩ならずや 
恩を知らぬは人ならず エエ汝は邪慳者かなと 声を上げてぞ泣き給ふ 
さしもに猛き渡辺も 飽くまで伯母に口説かれて 
是非なく門を押開き 奥の一と間に請じける 
伯母を敬ひ頭を下げ さても只今は 不思議の失礼仕って候 
先ず御酒一献きこし召し その後御曲舞を所望申し候 
目出度き折なれば 舞はうずるにて候 
御酒の機嫌をかりそめに 差す手引く手の末広や あら面白の山廻り


まづ筑紫には彦の山 讃岐に松山降り積む雪の白峰 河内に葛城 名に大峰 
丹波丹後の境なる 鬼住む山と聞こえしは 名も恐ろしき雲の奥 なつかしや 


いやとよ綱 鬼神の腕を切り取られし武勇のほど およそ天下に隠れなし 
してその腕はいづれに在りや 
即ちこれにと唐櫃の 蓋うち開けて 伯母の前にぞ直しける 
その時伯母は彼の腕を ためつ すがめつ しけじけと 眺め眺めて居たりしが 
次第次第に 面色変わり かの腕を 取るよと見えしが忽ちに 鬼神となって飛び上がり 
破風を蹴破り現れ出で あたりを睨みし有様は 身の毛もよだつ ばかりなり 
いかに綱 我こそ茨木童子なり 我が腕を取り返さんその為に これ迄来ると知らざるや 
綱は怒りて早足を踏み 斬らんとすれども 虚空に在り 如何にかなして討ち取るべしと 
思へど次第に黒雲おほひ 鬼神の姿は消え失せければ 
彼の清明が勘文に 背きしことの口惜しさよ 
なほ時を得て討ち取るべしと 勇み立ったる武勇の程 感ぜぬ者こそなかりけれ

常磐津「戻橋(もどりばし)」歌詞と解説

f:id:kachidokilife:20200317211301j:image

日本舞踊で人気の常磐津「戻橋(もどりばし)」の歌詞と解説です。

常磐津「戻橋」の解説

「戻橋」とは、現在の京都市上京区一条通りにある、堀川に架かる橋です。常磐津「戻橋」は、ここに伝わる「渡辺綱と鬼女伝説」に基づいています。

鬼女が復讐にやってくる、「戻橋」の後日談はこちら

長唄「綱館(つなやかた)」歌詞と解説 - 俺の日本舞踊

渡辺綱(わたなべのつな)と鬼女伝説

f:id:kachidokilife:20200317211504j:image

平家物語の時代。摂津源氏源頼光(よりみつ)の部下で、「頼光四天王」と呼ばれた優秀な側近たちがいました。

その中でも筆頭とされた渡辺綱(わたなべのつな)が、夜中に戻橋のたもとを通りかかりました。

すると、一人の美しい女がうずくまっています。綱は、こんな夜更けに女が一人でいることをいぶかしみつつも声をかけます。すると、「家へ帰る途中、こんな夜更けになってしまい、恐ろしいので家まで送ってほしい」と言います。

綱は「踊りを見てみたいものだ」と女に舞を所望します。実はこのとき綱は、月光により堀川の水面にうつる鬼女の影を見て、妖怪の正体を見破っていました。正体を暴かれ、たちまち恐ろしい悪鬼の姿に変わる女。綱の襟を掴んで飛び去ろうとしますが、綱は名刀「髭切丸」によって鬼の右腕を切り落とし逃げることができました。鬼女は光を放ちながら退散していったということです。

また、この後日談として、綱の館へ鬼女が腕を取り返しに来る『綱館(つなやかた)」という演目もあります。

戻橋は尾上家のお家芸

歌舞伎の本名題は、「戻橋恋の角文字(つのもじ)」といいまして、「新古演劇十種」の中のひとつです。さて、「新古演劇十種」を初めて耳にする方もいらっしゃるかもしれません。

みなさんは、市川家の「歌舞伎十八番」はご存知でしょうか?江戸時代、市川家の当たり芸として七代目市川團十郎が選定した18の演目のことで、「暫(しばらく」」「助六」「勧進帳」などが特に有名です。

「新古演劇十種」は、この歌舞伎十八番に対抗して、五代目・六代目尾上菊五郎が選んだ尾上家の十演目です。「戻橋」以外に「土蜘蛛」「茨木」などが有名です。

作品は、幕末の有名な歌舞伎の脚本家・河竹黙阿弥作詞、6世岸沢式佐作曲。明治23年(1890)東京歌舞伎座初演されました。

常磐津「戻橋」の歌詞

夫れ普天の下卒土の浜、王土にあらぬ所なきに、何国に妖魔の棲けるか、睦月の頃より洛中へ、悪鬼顕はれ人をとり、夜は往来の人もなし
去ば内裡の警衛に、都登りし源の、頼光朝臣は暇なく、去頃深く語らひし、維仲卿の姫君へ、便りもなさで在せしが
今日しも渡辺源氏綱、使に立し帰り道、卯の花咲て白々と、月照渡る堀川の、早瀬の流れ落合て、水音凄き戻橋
武威逞しき我君も、恋は心の外にして、兼々語らひ給ひたる、維仲卿の姫君へ、密々の仰せ蒙りて、路次の用意に御秘蔵の、髭切の太刀賜りしは、武門の誉身の面目、片時も早く立帰り、彼の御方の御返事を、我君へ申上げん
夜更ぬ内にと主従が、行んとなせし後より、一吹き落す青嵐に、岸の柳の騒がしく、心ならねば振返り
ハテ心得ぬ、妖怪出る取沙汰に、夜に入りては表を閉し、男子すら通行せぬに、女子の来るはいぶかしゝ
扨は我等を威さんと、姿を変て妖怪が、爰へ来ると覚えたり、幸ひなるかな打取つて
君へ土産にまゐらせん
二人の者にうち囁き
機密を授け退けて
己れ妖怪ごさんなれ
太刀引そばめほの暗き、木下蔭へぞ入にける
又叢立し雨雲の、蔭もる月をよすがにて

たどる大路に人影も、灯影も見へず我影を、若や人かと驚きて、被衣に身をば忍ぶ摺、けふの細布ならずして、女子心に胸合ず、思ひ悩みて来りける
卯月の空の定めなく、降ぬ内にと思へども、爰は一条の戻橋、見れば往来ふ人もなく
アヽ便りにもなやと佇みて、暫し休らひ居たりける
綱は小蔭を立出て
女性は何れへ参られるぞ
妾は一条の大宮より、五条のわたりへ参りまするが、唯一人故夜道が恐く、爰に佇み居りました
恐いと申すは尤もなり、五条のわたりへ参るとあらば、某送つて遣はさう
御詞に従ひますれば、お伴ひ下さりませ
折から空の雲晴て、月の光に見かはす顔
ハテあでやかな
水に写りし影を見て
ヤヽ今水中へ映りし影は
エヽ
夜更ぬ内にいざとく/\
西へ廻りし月の輪に、遠く望めば愛宕山、北野は近く清滝の、森を越え来る時鳥、初音床しく振返り、見上る顔にはら/\と、樹々の雫も雲運ぶ、雨かと暫し立休らひ
歩き馴ぬ夜道にて嘸草臥し事ならん
否妾よりあなたこそ、足弱をお連なされ、お草臥御座りませう
暫くこれで憩はれよ
連立つ道に馴易く、今は隔ても中空の、朧も春の名残かな
都人とは言乍ら、いとも優しき形風俗、御身が父は何人なるぞ
父は五条の扇折、舞を好みて舞し故、妾も稚き頃よりして、教へを受しが身の徳に、此程迄も或る御所に、お宮仕を致しました
恥しながら某は、未だ舞を見たる事なし、一さし舞を見せられまいか
お送り下さるそのお礼に、只今御覧に入れませう
女性は扇借受て、会釈をこぼし進み出で
空も霞みて八重一重、桜狩する諸人が、群つゝ爰へ清水や、初瀬の山に雪と見し、花の散り行く嵐山、惜む別れの春過て、夏の初めに後れにし、花も青葉の更衣、樹々の翠の美しや
イヤ面白き事なりしぞ、斯る技芸のある者を、妻に持なばよき楽しみ
言を此方ばよきしほど
定めてあなたは奥様を、お持なされて御座りませうな
未だ妻は娶らぬが、見らるゝ通りの不骨者、誰も妻になりてがない
何無いことが御座りませう
お情深きお心に今宵まみへし妾さへ、縁を結ぶ露もがな、思ふ恋路の初蛍
言出かねて胸焦し、若葉の闇に迷ふもの、都女郎は取分て
姿優しき花菖蒲、引つ引れつ沢水に、袖も濡にし事ならん
夫は御身の思ひ違ひ斯る名もなき田舎武士、誰が思ひをかけやうぞ
イエ/\立派なお名故に
何立派な名とは
当時内裡を警衛に、都へ登りし源の、頼光朝臣の身内にて、渡辺源氏綱殿故
ヤ如何致して其名をば
恋しく思ふ殿御故、とくより存じて居りまする
恋しく思ふと言は偽り御身が我名を存ぜしは妖魔の術であらうがな
星をさゝれて打驚き
何妖魔の術とは
姸き女に化するとも、其本性は悪鬼ならん、なんと
汝は心附ざしりが、月の光りに映りたる、影は怪しき鬼形なりしぞ
ヤア
其本性顕はせよ
言に妖女も忽ちに、憤怒の相を顕はせば
後に窺ふ郎党が観念せよと、組附を、事とも為ず振払ひ、
我は愛宕の山奥に、幾年棲て天然と、業通得たる悪鬼なり、車輪の如き目を見開き、炎を吐し有様は、身の毛もよだつ許りなり
扨こそ悪鬼でありしよな
イデ此上は汝をば我隠家へ連行ん
小癪な事を
引立行んと立かゝれば、綱は生擒呉んずと、勇力振ふ時しもあれ
一天俄かに搔曇り、振動なして四方より、黒雲覆ひ重りて、綱が襟上むんずと握み
砂石を飛す暴風に、つれて虚空へ引上れば
髭切の太刀抜放し、鬼の腕を切払ひ、どつと落たる北野の廻廊
悪鬼は群がる雲隠れ、光を放ちて失にけり

 

関連記事

常磐津「戻橋(もどりばし)」の舞台「一条戻橋」を訪ねました - 俺の日本舞踊

「戻橋」の後日談、鬼女が腕を取り返しに来るお話です。

長唄「綱館(つなやかた)」歌詞と解説 - 俺の日本舞踊

常磐津「戻橋(もどりばし)」の舞台「一条戻橋」を訪ねました

京都、一条通りにあり、堀川を渡る「戻橋」は、常磐津「戻橋(もどりばし)」の舞台となったところです。今回はこの戻橋に伝わる、数々の伝説や、現在の様子などをお伝えします。戻橋をこれからお稽古する方、戻橋は知っているけど、見たことはなくて実際の今の様子を見てみたい方、日本舞踊に取り上げられた以外のエピソードも知ってみたい方におすすめです。 

f:id:kachidokilife:20200317125607p:plain

目次

1.戻橋は逸話・伝説てんこ盛り。エピソードの宝庫

  • 1-1.常磐津「戻橋」の元となった「渡辺綱と鬼女伝説」
  • 1-2.戻橋の名前の由来となった死者蘇生の「清行・浄蔵の伝説」
  • 1-3.応仁の乱・最初の合戦地は戻橋
  • 1-4.安倍晴明式神が戻橋に住んでいた
  • 1-5.キリシタン二十六聖人耳切の刑の場所
  • 1-6.千利休の首が晒された場所
  • 1-7.そのほかの戻橋の禁忌と縁起

2.現在の戻橋(写真レポート)

  • 戻橋は、散策路もある市民の憩いの場になっている
  • すぐ近くにある晴明神社には戻橋のミニチュアがある
  • 昔の戻橋の様子


1.戻橋は逸話・伝説てんこ盛り。エピソードの宝庫

戻橋(一条戻橋)には数多くの逸話・伝説が残されています。順番に見ていきますね。

1-1.常磐津「戻橋(もどりばし)」(渡辺綱と鬼女伝説)あらすじ

f:id:kachidokilife:20200317091743p:plain

f:id:kachidokilife:20200317091830p:plain


まずは、日本舞踊で演じられる、常磐津「戻橋」のお話です。

平家物語の時代。摂津源氏源頼光(よりみつ)の部下で、「頼光四天王」と呼ばれた優秀な側近たちがいました。その中でも筆頭とされた渡辺綱(わたなべのつな)が、夜中に戻橋のたもとを通りかかりました。すると、一人の美しい女がうずくまっています。綱は、こんな夜更けに女が一人でいることをいぶかしみつつも声をかけます。すると、「家へ帰る途中、こんな夜更けになってしまい、恐ろしいので家まで送ってほしい」と言います。綱は月光により、堀川の水面に映った影から、鬼女の正体を見破ります。引き受け、本性を暴かれた女はたちまち鬼に姿を変え、綱の襟をつかんで飛んで行こうとしました。しかし、綱は名刀「髭切丸」によって鬼の右腕を切り落とし逃げることができたということです。

1-2.戻橋の名前の由来となった死者蘇生の「清行・浄蔵の伝説」

f:id:kachidokilife:20200317133007j:image

漢学者・三善清行

戻橋は、794年の平安京造営に際し、平安京の京域の北を限る通り「一条大路」に堀川を渡る橋として作られました。平安京の建築資材を運ぶ川としても活躍したようです。

名前の由来は、この橋の上で死者があの世から戻ってきた、という伝説によります。延喜18年(918年)12月に漢学者・三善清行(みよしのきよゆき)の葬列がこの橋を通った際、父の死を聞いて急ぎ帰ってきた熊野で修行中の子・浄蔵(じょうぞう)が棺にすがって祈ると、雷鳴とともに父・清行が生き返ったということです。 

1-3.応仁の乱・最初の合戦地は戻橋

f:id:kachidokilife:20200317090426p:plain

応仁の乱

応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1478年)までの約11年間にわたって起こった内乱です。

応仁の乱は、東軍の細川勝元の家臣・京極持清軍が、この戻橋をわたって、西軍へ攻め込んだことから始まります。このあたり一帯が、応仁の乱の初戦地となったのです。この戦争を境に、時代は室町時代から戦国時代へと移行していきます。 

 

1-4.安倍晴明式神が戻橋に住んでいた 

f:id:kachidokilife:20200317090911p:plain

安倍晴明式神

戻橋のすぐ近くには、安倍晴明がまつられる「晴明神社」があります。

かつて、「陰陽師」として有名な安倍晴明の屋敷がここにありました。安倍晴明は、「十二神将」とよばれる式神陰陽師の使役する神で、人心から起こる悪行や善行を見定める役を務めたとされる)っを従えており、その式神が、この戻橋の下に住んでいたとされています。最初は屋敷の中に住んでいましたが、なんでも、晴明の家族が式神の顔を怖がったため、橋の下に住まわせたのだとか。 


1-5.キリシタン二十六聖人・耳切の刑の場所

f:id:kachidokilife:20200317091153p:plain

キリシタン二十六聖人

豊臣秀吉が天下を収めていた時代、キリスト教は日本で禁じられていました。キリスト教により強く結びついた人々が、権力を脅かす存在になることが恐れられたためです。キリスト教を信仰する人はキリシタンと呼ばれ、見つかると厳しく罰せられました。当時、日本でキリスト教の熱心な布教を行った26人のキリシタンが捕らえられ、「耳切の刑(耳たぶを切り落とされる)」という残酷な刑を受けたのが、ここ戻橋でした。その後、彼らは九州に送られて最後は処刑されてしまうのですが、いまではカトリック教会により「聖人」とされ、「日本26聖人」と呼ばれ信仰されています。 

1-6.千利休の首が晒された場所

f:id:kachidokilife:20200317091419p:plain

千利休

千利休(せんのりきゅう)のことは、一度は耳にされたことがあると思います。商人であるとともに、文化人として、今日まで続く茶道の源流「茶の湯」を大成しました。豊臣秀吉の側近として政治的にも活躍した人ですが、晩年は秀吉の不興を買い、切腹を命じられてしまいます。なぜ秀吉の不興を買ったのか、山門に自分の像を飾り、下を通る秀吉が、履物を履いた利休の下をくぐらないといけなかったことに対し、秀吉が激怒したなど、諸説あるようですが、いまだに真相は分かっていません。

秀吉により切腹させられてしまった利休の首が晒されたのがこの戻橋です。 

1-7.そのほかの戻橋の禁忌と縁起

戻橋は死者の魂が返ってくる、という意味から「戻橋」と名付けられました。したがって、嫁入り前や縁談の関係者はここを通ってはいけない(嫁入りした後に戻ってきてはいけないから)というタブーや、逆に、戦時中は、戦場から無事に帰ってこれるようにと、出征前にここを訪れる人があったりしたようです。

 

2.現在の戻橋(写真レポート)

京都駅から地下鉄で約10分の今出川駅から歩いてさらに10分ほど。堀川と一条通の交差するところに「一条戻橋」があります。

f:id:kachidokilife:20200317124008p:plain

戻橋は、散策路もある市民の憩いの場になっている 

f:id:kachidokilife:20200317124710p:plain

f:id:kachidokilife:20200317124731p:plain

一条戻橋から南側は遊歩道が整備されています。訪れたのは2020年の3月ですが、橋のたもとにきれいな河津桜が咲いていました。

f:id:kachidokilife:20200317124919p:plain

戻橋の北側は木々が生え、しっとりとした雰囲気です。

すぐ近くにある晴明神社には戻橋のミニチュアがある

f:id:kachidokilife:20200314133220j:plain

かつては安倍晴明の屋敷があり、いまは晴明を祀っている晴明神社。戻橋からは、堀川通を渡ってすぐ、徒歩2分の場所にあります。ここに、かつての戻橋の部材を使って作られた戻橋のミニチュアがあります。

f:id:kachidokilife:20200314133144j:plain

ミニチュア戻橋の横には「式神」の石像が。

昔の戻橋の様子

f:id:kachidokilife:20200317125153p:plain

f:id:kachidokilife:20200317125518p:plain

f:id:kachidokilife:20200317125532p:plain

都市計画の中で、戻橋のかかる堀川の水も枯れてしまったこともあったそうです。しかし町のシンボルとして堀川の流れを復活させようと、今では水流が復活しています。

まとめ

戻橋は、常磐津の渡辺綱・鬼女伝説の他にも数々の逸話・伝説が残されている不思議な場所でした。いまは昔の面影はほとんどないようですが、人々に語り継がれていた物語から往時を偲ぶことができました。

アクセス

一条戻橋(いちじょうもどりばし)

〒602-8232 京都府京都市上京区1条通19丁目
https://goo.gl/maps/Eqpm9vChYt8ZiuidA

地下鉄・今出川駅から徒歩約10分。

今出川駅へは京都駅から地下鉄烏丸線に乗り、約10分です。

 

関連記事

常磐津「戻橋(もどりばし)」歌詞と解説 - 俺の日本舞踊

日本舞踊も「リモートレッスン」の時代!花柳琢次郎が日本初「テレ稽古システム」を開発。新型肺炎コロナウィルス影響を受け一般公開

 f:id:kachidokilife:20200304204237j:plainf:id:kachidokilife:20200304204232j:plainf:id:kachidokilife:20200309142714j:plain

 日本舞踊家・花柳琢次郎(はなやぎたくじろう:東京都世田谷区、以下、琢次郎氏)が日本初、インターネットを通じて自宅にいながら日本舞踊の稽古を受けられる「テレ稽古システム」を開発しました。開発期間は6年。すでに国内だけでなく世界4カ国で実証済みとのことです。

 新型コロナウィルスに伴う外出自粛や小中学校の休校が相次いでいます。それにより、対面でないと稽古ができない日本舞踊教室にとっては死活問題であると同時に、教室の生徒たちにとっても稽古を受けたくても受けられない状況が生まれています。そこで今回、そのような状況を改善すべく、教室内で使用していた「テレ稽古システム」について広く一般に公開しました。

国境を越える日本舞踊!世界4か国で実証済みの「テレ稽古」の仕組み

f:id:kachidokilife:20200307223438j:plain

  門下生の自宅と、日本舞踊講師の稽古場をインターネット中継で繋ぎ、カメラ・モニターを通じて稽古を行います。これにより、動画での中継、という点以外は対面での稽古とまったく同じです。

 琢次郎氏は、これまで6年間に渡り、世界4カ国(イギリス、ポーランドアメリカ、シンガポールで実証済み)の弟子たちと一緒に「テレ稽古システム」を作り上げてきました。ネット環境、時差、指導法、言葉の壁などを徐々に改善し、6年を経て「テレ稽古システム」が完成しました。

5Gなど技術革新により日本舞踊教室もリモートが当たり前に?

 習い事市場の中でもいま人気なのはeラーニングやアプリなどを使った自宅学習です。 「テレ稽古システム」により、対面でしかできないと考えられていた日本舞踊の稽古が自宅で可能になります。日本舞踊のあり方が変われば、国内外に愛好者が急拡大することも考えられます。5G回線など技術の進歩で、より対面での稽古に近いパフォーマンスも期待されます。

今後の普及の課題は設備の改善と指導力の向上

 課題もあります。インターネット回線の状況により起こるタイムラグや通信障害、使用するモニターやタブレットに依存する映像のサイズなどです。また、指導者のスキルも必要不可欠です。左右反転して踊る技術や、画面越しに微妙な体の動きを読み取って指導する力、外国人に教える場合は語学力などをどう培っていけるかが、今後「テレ稽古」に取り組む際の課題となります。琢次郎氏は引き続きこれらの課題の改善に取り組みつつ、日本舞踊と「テレ稽古」のさらなる普及を目指す方針です。

これからの展開「中南米日系人の子供たちに日本の文化を伝えたい」

 テレ稽古システムを活用した今後の展開について琢次郎氏はこう語っています。
「これから新年度に向けて本格的に力をいれようと思っているのは、中南米や南米、また他地域で生活する日系人の子供達向けに何か出来ないかという事です。
 ブラジルでは日系人はとても優秀なのだそうですが、もうほぼ日本語が話せなくなりつつある子供たちに日本語だけではなく、祖先が育んできた精神性や道徳、その意味などを昔ながらの稽古事を通じて教えられないかという事です。」
 ドメスティックな分野だと思われがちな伝統芸能の世界ですが、現代の技術を取り入れていくことで、世界へ大きく羽ばたくきっかけになりそうです。

 

花柳琢次郎(はなやぎたくじろう)

1964年 東京生。
日本大学芸術学部演劇科卒。
花柳流日本舞踊教室 扇道会 稽古場代表。
国内外での舞台活動や歌舞伎舞踊作品の保存、また振付活動に勤しんでおります。

花柳流日本舞踊教室 扇道会HP
http://ogidonihonbuyo.mystrikingly.com/

長唄「鶴と亀 」歌詞と解説

日本舞踊で人気の長唄「鶴と亀」歌詞と解説です。

 

「鶴と亀」解説

鶴は千年、亀は万年ともに古来より縁起の良いものとされています。

ちなみに、掛け軸などで、甲羅の後ろに毛のような藻が生えた亀の絵をご覧になったことはありますか?あれは「蓑亀(みのがめ)」といい、亀の中でも、より長寿・縁起物の象徴として珍重されています。

f:id:kachidokilife:20200308064947p:plain

葛飾北斎/游亀(ゆうき)

 鶴は長寿だけでなく夫婦円満の象徴にもなっており、近年、結婚式のご祝儀の水引にもモチーフとしてよく用いられます。f:id:kachidokilife:20200308064552p:plain

「鶴と亀」歌詞

鶴は千代 亀はよろづ代 いくとせも よわい重ねて
めでたけれ よわい重ねて
めでたけれ

 

 

日本舞踊はなぜ「古典」なのか?そのきっかけは日清戦争にあった

  • 日本舞踊は「伝統芸能」。
  • 日本舞踊は「古典」。
  • 着物を着て踊る、古いもの。

 

たぶん、多くの人がこう思っていると思います。

江戸時代の日本舞踊(当時は『日本舞踊』という名称はありませんでしたが)は、当時の人たちにとっては間違いなく「現代」のものでした。私たちがスポーツジムや、子供の塾やプログラミング教室を探すのと同じ「いま」のものでした。

それがどこから「古典」「古いもの」に変わったのか。

 

実は、「日清戦争」がそのきっかけなのです。この記事ではなぜ日本舞踊、はじめ歌舞伎なども含めて「古典」となっていったのかをご紹介します。

 

日清戦争とは

日清戦争(にっしんせんそう)とは、1894年(明治27年)7月25日から1895年(明治28年)4月17日にかけて日本と清国の間で行われた、朝鮮半島の権益をめぐって起こった戦争です。

結果は日本が勝利し、日本がアジアの近代国家として認められ、下関条約により得た多額の賠償金を活用して、本格的な工業化に乗り出すきっかけとなりました。

 

日清戦争の勝利にわく日本

歌舞伎やそこから生まれた日本舞踊、文楽などが「古典」と定義されるようになったのは日清戦争がひとつの境となっています。


日清戦争が始まり、中国での戦勝報告に沸き立つ日本では、連日、戦場の兵士を鼓舞し、国威を高揚するようなメディア報道、歌曲、錦絵などが発表され大人気を博しました。

 

日清戦争下で演劇が果たした役割

演劇も例外に漏れず、日清戦争をテーマとした多くの作品が作られます。

特に、川上音二郎率いる「新派」と呼ばれる集団は開戦からわずか2週間後「壮絶快絶日清戦争」を上演。川上自ら戦地に取材した「川上音二郎戦地見聞日記」は皇太子(のちの大正天皇)の天覧舞台も務めました。演出にも力を入れ、三味線音楽を廃し、突撃ラッパを使う、舞台上で花火を使い臨場感を盛り上げるなどさまざまな工夫を凝らしていたようです。

歌舞伎も負けじと新派の挑戦に答え、「壮絶快絶日清戦争」から約1ヶ月後には東京で「日本大勝利」さらに1か月後には大阪でも「我が帝国万々歳 勝歌大和魂」を上演。しかし結果は残念なものだったそうです。当時の批評では「舞台で火薬を爆発させるなど新派のやり方を真似ても、稚拙な筋書きと演出を補うには足りない」など辛辣なものが残っています。

この時から、歌舞伎や文楽は時代を反映する現代性を失っていき、古典色を深めていくことになっていきました。

 

時代を超えて愛されるもの

現代の出来事を写実的に生き生きと描き出せる近代演劇が国民の熱狂をさらい、歌舞伎や日本舞踊は「古典」の世界へと位置付けを変えました。

江戸時代は歌舞伎も文楽も、ゴシップ的なものを取り上げて発展してきた歴史があります(心中や仇討ちなど)。伝統芸能という様式の中では、現代の出来事はリアルに表現はできないですが、古典の様式だからこそ、そのエッセンス、つまり時代が変わっても変化しない人の心とか感情が心を打つこともあり、それが伝統芸能の魅力でもあります。より普遍的な価値に目を向けていきたいですね。

 

参考文献

ドナルドキーン「日本人の美意識」

長唄「雨の五郎」歌詞と解説

日本舞踊で人気の長唄「雨の五郎」歌詞と解説です。

f:id:kachidokilife:20200215185727j:image

長唄「雨の五郎」解説

曾我兄弟の仇討ち」で有名な、曾我時致(そがときむね)が主人公です。

曾我兄弟の弟である五郎(兄は十郎祐成(すけなり))が、鎌倉の遊女で恋人である、化粧坂(けわいざか)の少将の元へ、雨の中駆けつける様子が、仇討ちへの勇ましい心と交互に唄われています。

曾我兄弟の仇討ちは、「赤穂浪士」「鍵屋辻の決闘」とともに「日本三代仇討」と称されており、歌舞伎にも曾我兄弟を題材にした「曾我物」という一大ジャンルを生み出すほど数々の作品が作られ、人気を誇りました。

曾我兄弟の仇討ち物語のあらすじ

時代は鎌倉時代。武士の工藤祐経(すけつね)は、所領分割相続の争いに端を発し、恨みがあった親族・伊東祐親(すけちか)の嫡男・河津祐泰(かわづすけやす)を暗殺する。祐泰の遺児、一萬丸と箱王丸こそが、のちの十郎祐成と五郎時致の曾我兄弟である。

厳しい生活の中で成長した2人がついに仇討ちを果たすのは建久4年(1193年)。源頼朝御家人(部下)になっていた工藤祐経は、頼朝によって、富士の裾野で催された大規模な狩りに同伴していた。夜闇に紛れて祐経の寝所へ押し入った二人は酒に酔って寝ていた祐経を討つ。兄・十郎は集まってきた御家人たちと争いその場で討死、弟・五郎は頼朝の面前へ引き出され仇討ちの心情を述べた。頼朝は助命も考えたが、祐経の遺児を慮って、斬首を命じた。

仇討ちだけではなく十郎の恋人「大磯の虎御前」五郎の恋人「化粧坂の少将」の存在も、曾我兄弟人気の一つとなっている。

 

長唄「雨の五郎」歌詞

さるほどに 曽我の五郎時致は 倶不戴天の父の仇 討たんずものとたゆみなき
弥猛心も春雨に 濡れてくるわの化粧坂 名うてと聞きし少将の 雨の降る夜も雪の日も
通ひ通ひて大磯や 廓の諸分のほだされやすく誰に一筆 雁のつて 野暮な口説を返す書
粋な手管についのせられて 浮気な酒によひの月 晴れてよかろか 晴れぬがよいか
とかく霞むが春のくせ いで オオそれよ 我もまた いつか晴らさん父の仇 十八年の天つ風
いま吹き返す念力に 逃さじやらじと勇猛血気 そのありさまは牡丹花に つばさひらめく 胡蝶のごとく
勇ましくもまた 健気なり


藪の鴬 気ままに鳴ひて うらやましさの庭の梅 あれそよそよと春風が
浮名立たせに 吹き送る 堤のすみれ さぎ草は 露の情けに濡れた同士 色と恋との実くらべ
実 浮いた仲の町 よしやよし 孝勇無双のいさをしは 現人神と末の代も
恐れ崇めて今年また 花のお江戸の浅草に 開帳あるぞと賑しき